第二回 「勝手にワヤン考 前編 ~日本人の眼に映ったワヤン~」

 同じアジア圏内に、ワヤン・クリッという人形影絵芝居があることは、ずいぶん前から知っていた。たしか高校時代に読んだ、文楽の入門書が、その知り始めではなかったか。その本には「諸外国のいわゆる人形劇の大半が“子供の鑑賞物”であるのに比べ、文楽は世界でも数少ない“大人のための人形芝居”である。そのような例は珍しく、あえて挙げるならば、東南アジアの人形影絵芝居ぐらいだろうか」という旨の(今にして思えば、ちょっと眉唾ものの)記述があり、それを鵜呑みにした私は、「文楽に血道を上げる者としては、一度その人形影絵芝居とやらを観てみたいものだ」と、思った。やがてそれは「インドネシアには、ワヤン・クリッという文楽によく似た芸能があるらしい」という知ったかぶりも甚だしい“一種の思い込み”に変じ、この極端に単純化された認識のみを携えて、インドネシアに乗り込んだのだから、今更ながら、無知というものは恐ろしい。
 であるからして、生まれてはじめてワヤン・クリッを目の当たりにして、真っ先に持った感想は、「こ、これは……文楽ではない。」という実に間の抜けたものだった。
 これまで観たことのない芸能であった。月並みな言い方だが、それは、一種のカルチャー・ショックであって、“得体の知れないモノ”に出会った時の、怖さと高揚感があった。思わず、ワヤン・クリッ(以下「ワヤン」と略す)研究者の遠藤雄氏のそばに駆け寄り、「遠藤さん! これ、ぜんぜん、文楽じゃないですよ。というか、文楽との共通点を見出すほうが難しいぐらいです。」と、上演中であるにもかかわらず、ご注進に上がったぐらいである。遠藤さんは、影絵のスクリーンから目線を外し、「でしょ。そうなんですよ、ええ。」とのみおっしゃった。そして、軽く膝を打つようなしぐさをしてみせた。それを受けて、私は少しほっとした。きっと彼はこう言いたかったのではないだろうか。「しばしば文楽と同類のように語られるたびに、苦々しく思っていたのですよ。だってすごく乱暴な言説だから。あなたもそう思ったのでしょ、そこに気がついて、まずは、エライエライ」と。心なしか遠藤氏の目が笑っているように見えた。

 さて、それからが問題である。この得体の知れない「ワヤン」という怪物と、どう対峙すればよいのか……。文楽との比較が成立しないとわかった今、ほとんど丸腰同然である。ならば、「全く新しい眼」で感受すればよさそうなものだが、人間は常に、これまでの経験と記憶の中で培ってきた“類型”と比較する中でしか、世界を感知することができない不自由な生き物であるから、そう容易くは「新しい眼」などになれるはずもない。一体どうすればよいのか。いよいよ進退窮まった時、ふと「鵺ぬえ」のことを思い出した。かつて日本人は、得体の知れない怪物を「顔は猿、胴は狸、手足は虎、尾は蛇にさも似たり」と解することで、“得体の知れるモノ”とした。類型が見つかるまで細分化して、全体を捉えようとするこの方法が、賢いやり口であるかはわからないが、漫然とワヤンを見つめ続けるよりはいくぶんか収穫があるような気もする。こうなれば、徹底的に、古典芸能と比較してやろう。自分の中の、見出せるだけの“類型”を総動員して(それとても、高が知れた蓄積ではあるが)、ワヤンとがっぷり対峙してみたい。どうせ相手は怪物だ。いずれこちらの矢も尽き、刀も折れる。“類型”を出し尽くした果てに、「さも似たり」という例えなどではなく、怪物の実態が見えてくるような気がしたのだ。

 ワヤンは、「ダラン」と呼ばれる語り手がひとりで物語を進行させる。その点だけは、文楽の太夫と似ていなくもない。しかし、段ごとに太夫が交代する文楽とは違って、ダランは深夜の七時間上演を休憩なしに一人で語り切る上に、全ての人形をも操るのだから、おのずとその性質は異なる。文楽は、太夫が全体のリードを取りつつも三業(語り、人形、三味線)の完全分業制であるが、ワヤンはほぼダランの一人舞台であり、上演にまつわる責任の全てが彼の肩に圧し掛かっていると言ってよい。そのスタンスだけを取り出して、あえて日本の芸能に類型を見出すなら、「錦影絵」が最も近いのかもしれない。これは江戸期に流行した娯楽で、アニメの元祖のようなものだ。ガラス版に描かれた絵を蝋燭の明かりを光源に和紙のスクリーンへ投影する実に繊細で美しい芸能なのだが、ガラス版の操作から語り、時に楽器の演奏までを一人の影絵師がこなしていた。一種のダラン的存在と言えなくもない。影を映し出して見せるという共通点からいっても、木偶人形による人形浄瑠璃(文楽)よりも、錦影絵の方がいくぶんかワヤンに近いような気もするが、そもそも錦影絵は少人数で鑑賞する密室芸であり、ワヤンのような大規模な上演ではない。上演時間もさほど長くはないし、内容も、歌舞伎や舞踊の一コマを切り取った断片的軽みが身上であり、ワヤンのように叙事詩的な物語性はない。 では、「叙事詩的語り」ということだけを見て、日本の浄瑠璃のようなものなのかと問われれば、これも頷きがたい。「 語りの様式」が浄瑠璃とは異なるからだ。私は古代ジャワ語を全く解せないから、事前に頭に入れていたごく簡単なあらすじだけを頼りに、ただ音としてダランの語りを聴くしかなかったが、その違いは歴然と感じられた。例えば、日本語を解さない外国人が、突然浄瑠璃を聴いたとしても、今、どのような登場人物がしゃべっているのかぐらいは見当がつくと思う。若い女性なのか、老人なのか、男性なのか、場合によってはその人物が、善人なのか悪役なのかまで判別できるかもしれない。それに比べてダランの語りは、もっと淡々としていた。ダランが人形を動かしてくれなければ、今どの人物がしゃべっているのかすらわからない。にもかかわらず、いつまでも恍惚と聴いていられるような、圧倒的な強度を秘めた語りなのだ。この感じ、以前どこかで体験したような気もするが……そこで思い当たったのが「節談説教」。僧侶が布教の一環として、仏教説話などを民衆に語り聞かせた芸能で(浪曲や落語などの「日本の話芸の源流」であるとされている)、これを聴いている時の生理にかなり近い。物語を追いながらも、ある瞬間は、理屈を越えて宗教的な法悦に誘われる感覚。浄瑠璃は、聴衆を物語の世界に誘うことを旨とするが、節談説教は、物語を通過して、宗教的な神秘世界にまで引き入れることを目的とする。ワヤンの演目のほとんどが「マハーバーラタ」「ラーマーヤナ」などの所謂“神話(神々の物語)”を原典にしていることを考えると、その「語り」に、人間の宗教心に直接触れてくるような〈魔力〉が潜んでいたとしても、そう不思議ではないのかもしれない。
 人形はどうであろうか。ワヤンの革人形は、手足の関節部分が動く程度で、実にシンプルな作りである。手足指先、首や目までをも三人がかりで動かす文楽人形とは、自ずとその「虚構度」が異なることは言うまでもない。例えば、文楽を見ていて、人形遣いのその繊細な至芸によって、人形を人と見まごうといった経験は度々あるが、ワヤンの革人
形では、そういった感覚に陥ることはほとんどない。どこまでも人形然としている。そも、はじめから“人に似せる”ことを潔しとしていないように感じられた(蛇足ではあるが、文楽人形も、「人に似せること」のみを目指して
今日まで発達してきたわけではない。人的な動きと木偶ならではの超人的な動きとを使い分けることで、その“あわいの妙”を見せることが文楽人形術の本位である)。 ワヤンの人形は、シンプルであるがゆえに、ちょっとした動きが実に効果的に作用する。技術はそうとう高度なものだ。とりわけ驚いたのは、「移動の動き」である。ある人物が、左から右へ移動しようとする。その際、まず人形をかすかに右方向に傾ける。つまり人形を少し前かがみにする。これで、移動のスピード感が表現される。そのあと、足は動かさず、人形をそのままスーと右へ動かす。目的地点に近づくと、片足だけを少し動かしピタッと止める。少し遅れて、腕をかすかに動かす。これで目的地点に到着したことが表される。まるで上手い能役者の移動を見ているようであった。スムーズな摺り足、最後の一足と慎重に止める繊細さ、そして、手を構えの位置(定位置)に戻す所作の美しさ、能が持つシンボリックな身体性に実によく似ているのだ。この類似はあながち偶然ではないような気がする。万事、最小限の動きにまでそぎ落とされた能の演技と、最小限の可動域によって成り立つワヤンの人形には、どこかで共通した〈洗練美のロジック〉が働いているとも言えるからだ。
 終始、虚構度が高く、人形然としているワヤンの影絵において、一か所だけ、恐ろしく鮮烈な「リアリズムの精神」を感ずる箇所があった。それは戦闘シーンである。ダランは2体の革人形を力一杯、ぶつけ合う。人形が壊れてしまうのではないかと心配になるほど、激しく、激しく、何度もぶつけ合う。この暴力シーンの迫力には、どんな映画や演劇も敵うまい……と思った。なにせ人形同士の“本物の暴力”である。平生、人形然としているからこそ、そのギャップも相まって、直視できないくらいの残酷さで、思わず「あ、痛い!」と声を出してしまいそうなほど鬼気迫るものがあった。また、文楽人形のように、人形的身体性を全面に生かして、暴力を一つの様式美として見「殺し」のロジックとは真逆な点も興味深い。
 戦闘シーンでもう一つ興味深かったのは、効果音である。ダランが人形を操りながら、チュンポロという金属または木製の小槌を、金属プレート数枚を一組にして吊るしたものに打ち付ける。当然けたたましい音がする。武器と武器がぶつかり合った際に、また一撃を食らわせた際に、鳴らされるが、これは、歌舞伎でいうところの「ツケ」のようなものだろう。しかし、ツケの、どことなくおっとりした木製音に比べて、このチュンポロの金属音には得も言われぬ切迫感があった。ちなみに、このチュンポロという木槌は、通常、コタックという人形収納用の木箱に打ち受けて使用される。「ゴンゴン」と低い音がするが、これは戦闘シーンにかぎらず、会話と会話の切れ目や場面転換時など、要所要所に挟み込まれる。ちょうど、講談の張り扇や落語の小拍子のような、物語の句読点的役割を担っているのだろう。同時に、伴奏の楽隊(ガムラン)への合図や指示も兼ねているのだという。
 ……などなど、ワヤンを細分化して、様々な日本の古典芸能と繋げつつ、その類似点と差異について考え出せば、まだまだ多くのことが指摘できるが、キリがないから、ひとまずこのあたりでやめておこう。そういったものを「ワヤン・クリッ」から差っ引いた際に、さて何が残るのか……。日本の古典芸能の中から類型を見出すことができないものは何であるのか、つまり日本人的発想を飛び越えて、我々の眼に、斬新かつ鮮烈に映ったものは何であるのかについて考えてみたい。そうすれば、いよいよ、この“怪物の実体”が浮かび上がってくる気がする。(後編につづく