このコラムの第一回目で、以下のような柳宗悦の言葉を引用している。
「藝術の美はいつも国境を越える。そこは常に心と心とが逢う場所である。そこには人間の幸福な交りがある。いつも心おきなく話し掛ける声が聞こえている。藝術は二つの心を結ぶのである。そこは愛の会堂である。」
その上で、私は、本プロジェクトを通して「……どんなに小さくても、どんなに粗末なものでもいいから、会堂を見つけ、そこに入れることを切に願っている──。」と抱負を語った。
このコラム一回目は、今読み返してみると、肩に力が入りすぎているきらいも、またやや大上段に構えすぎているフシもないではないが、〈愛の会堂〉を見つけたいという想いは、ひとつの嘘もないし、またそれを褪せさせずに、今日まで来れたように思う。
コラム第四回(つまり最終回)では、その締めくくりとして、本プロジェクトの中で、とりわけインドネシア視察中に見つけた〈会堂〉について書いていきたいと思う。
バリでインタビューさせていただいたウィジャ氏。著名なダランであり、その道では第一人者でありながら、新作ワヤン・クリッや子供の体験教室、従来の伝統にはなかった上演方法の考案などにも熱心に取り組んでいらっしゃる。話せど話せど尽きないアイデアの数々をうかがいながら「その情熱は一体にどこからくるのだろうか……」と思っていたのだが、自作の革人形(ワヤン)を見せていただいた時、その創作意欲の根源がわかったような気がした。その人形たちは、大の大人が五、六人は入ろうかというくらい大きな木箱にぐっしり収納されていた。ご本人も「今まで何体作ったかわからない」というほどのおびただしい人形たち。オリジナルのキャラクターから、牛や馬の動物、草木から、はては恐竜や飛行機にいたるまで、まるでこの世の神羅万象すべてを人形にしてきたかのようだ。当然、慣習的な〈伝統〉からは“規格外”のものばかりだが、「若い頃は批判もされたし、今でも批判する人はいるけどね。でもちゃんと伝統芸能の基礎と技術の上に則ってやっているつもりだから」と語り、批判など歯牙にもかけないご様子であった。なにより、自作の人形を操るお顔のやさしいこと、楽し気なこと。そのお姿を眺めながら、こんな光景を想像した。大勢の子供たちがウィジャ氏の上演する創作ワヤン・クリッを見ている。ウィジャ氏が恐竜のワヤンを取り出す。子供たちは一斉に「わあ」と歓声を上げる。また、ウィジャ氏が新しい人形を取り出そうとする。子供たちは、次は何が出てくるか固唾をのんで、彼の手元を見つめる。今度は飛行機が登場する。子供たちはさっきより大きな歓声を上げる──。ウィジャ氏の創作ワヤンには、子供たちの歓声や笑い声がいっぱい滲み込んでいるに違いない。彼はそれら子供たちとの思い出を懐かしみ、慈しむように、自作のワヤンを一つひとつ手に取り、私の前で操ってみせてくれた。これがウィジャ氏の創作意欲の根源であり、〈会堂〉なのだ。子供たちを楽しませたい、少しでもワヤン・クリッに親しんでもらいたい、そしてワヤン・クリッを通して、子供たちと“笑みの交換”をしたい。そのようなアーティストの純粋な心にとって、批判など、物の数ではないだろう。極めて〈純度の高い会堂〉でウィジャ氏と子供たちは交わっているのだから。
同じくバリの寺院で見た、プレンボン(舞踊劇)も忘れ難い。プレンボンは歌やコント風のやりとりが入り混じる伝統演劇で、観客は大いに沸いていた。私たち日本人には、「エンタメ」と「伝統芸能」を意識的にも、また無意識のレベルにおいても分けて認識しがちであるが、ここには、そのような境界線は無かった。伝統が娯楽として、また娯楽が伝統として生きているのだ。文字通り、寺院の会堂で、娯楽と伝統が出会い混然一体となりながら、融合していた。それは〈ボーダレスな会堂〉だった。
ボーダレスといえば、ワヤン・ボチョール(影絵を使った創作現代演劇)の稽古場の光景も素晴らしかった。現代美術家のエコ氏が中心となって創作されているのだが、そこに集うメンバーは、人種も宗教も異なる。ヒンドゥー教、イスラム教、キリスト教、仏教……、政治的なポリシーもきっとそれぞれだし、社会に対する主義主張だけを取り出せば対立関係にある者同士だってきっといるはずだ。そういった“多様さ”と“厄介さ”を引き受けながら稽古は進められていく。ピクニックのように茣蓙が敷かれ、全員(十人ほど)で車座になる。お菓子や飲み物が置かれ、めいめい好きに食べながら、話し合う。その様子は、ただ談笑に興じているかのような和やかさで、作品ミーティングといった堅苦しさは微塵もなかった。そうこうしているうちに、いつの間にか、台本が配られ、台詞(歌詞)の読み合わせがはじまる。少し読み合せたら、また話し合い。それを延々繰り返すのだ。なんと有意義な稽古だろうと思った。異質な者同士が一つの作品を作るためには、これだけの丁寧さと、慎重さと、そして余裕が必要なのだ。お互いをよく知ること、知ろうと努力し続けること。演出家やリーダーが独善的に取り仕切るのでなく、違いを受け入れながら、創作していく。多民族国家における創作の在り方を目の当たりにしたような気がした。ちなみにワヤン・ボチョールの「ボチョール」とは「開かれた」という意味らしい。あの稽古場はまぎれもなく〈開かれた会堂〉だった。
伝統芸能において、芸を守り継承していくのと同じくらい、「どう開いていくか」が重要である。新しい観客を誘うためにどの門戸を“開く”べきか、どう“展開”していくべきかを考えることを放棄した時点で、その芸能は一気に先細ってしまう。ワヤン・ヒップホップを創始したダランであるチャトゥール氏は、まさに伝統を開いていこうとされている方だった。残念ながら、創作ワヤン「ワヤン・ヒップホップ」の実際の上演を目にすることができなかったのだが、彼の自宅兼アトリエで見せていただいた創作人形は、現代服を身にまとい、欧米のコミック・キャラクターのようなPOPな姿をしていた。ヒップポップというカルチャーとワヤンという芸能が、チャトゥール氏の中で、どのように結びついているのか、両方ともに無知な私にはよくわからなかったこともあって、突っ込んだ質問が出来なかったことは申し訳なく、残念だった。しかし、チャトゥール氏が行っている、子供たちに向けたワヤンのワークショップのお話は大変興味深かった。インドネシアでも子供のワヤン離れが深刻なのだそうだ。そこで彼は、一方的にワヤンを見せたりレクチャーしたりするだけでなく、実際に、子供たちに紙でワヤン(人形)を作ってもらうワークショップを考案した。子供たちはオリジナリティー溢れる人形を次々に作るのだそうだ。その中で、チャトゥール氏が、ワヤンの人形の特徴や伝統的なスタイルを説明する。つまり実際手を動かしながら、ものを作る楽しさと、知る楽しさの両方が味わえる仕掛けなのだ。人形作りに夢中になっている子供たちは、彼の説明やアドバイスを真剣に聞くに違いない。チャトゥール氏は〈未来を育む会堂〉を作ろうとしているのだと感じた。この会堂から、何人のもワヤンファンが生まれ、中にはダランを志す子供も出てくるのではないか……と想像していたら、なんだか幸せな気分になった。
さて、私の出会った〈会堂〉の極め付けは、旅の終盤に訪れたスカスマンの工房であった(※スカスマンについては遠藤雄氏のコラムP.61を参照)。ワヤン・クリッの現代的演出、芸能としての革新の在り方を模索したワヤン・ウクールの創始者、故スカスマンの痕跡は工房のいたるところに残されていた。どの痕跡からも彼の「ワヤンに対する深い愛」を感じることができた。例えば、壁一面に白いチョークで書きつけられた創作メモ。やりたいこと、アイデア、新たなプランが湯水のように湧いていたのだろうか。昼も夜も、ワヤンのことだけを考えていたに違いない。筆圧の高いチョークの文字は、彼亡きあともその情熱を今に伝えているように感じられた。大きな紙に描かれた革人形の下絵、壁に掲げられた自作のワヤンのレリーフからは、ワヤンのキャラクターに対する愛情が滲み出ていた。なんといっても線が美しい。どの線も流れるように軽やかでありながら、力強く、一分の迷いも見られない。一ミリのズレも許さない、確信と自信にあふれた線だ。すみずみまで神経が行き届いていて、それはまるで、まだ見ぬワヤンのキャラクターの〈魂〉というものがすでにあって、それをスカスマンがあの美しい線によって形を与え、この世に出現させたのではないだろうか、などと、いささかキザな言い回しもしてみたくなるほど、生き生きしていた。この〈純粋な愛〉があればこそ、彼のまわりには、多くのアーティストが集い、ワヤン・ウクールは、芸術運動体として機能していたのだろうと思う。生前のスカスマンに接することも、ワヤン・ウクールを生で見ることも叶わなかったのが返す返すも残念でならない。けれど、スカスマンは、作品のみを作ったのではなく、人も育てた。現在、第一線で活躍しているダランの中には、若い頃、彼と創作を共にし、その中で影響を受けた人も少なくないという。スカスマンは種を蒔いた。上演作品は滅しても、彼の遺伝子を分有したアーティストは生き続けているのだ。なんと尊い会堂だろう。
ワヤンに対する〈純度の高い愛情〉、伝統と現代の融合を試みた〈ボーダレスな作品〉、伝統芸能家にもそうでない人にも〈開かれた創作〉、そして〈未来を育むための人材輩出〉──。これを「愛の会堂」と呼ばずして、なんと呼ぼうか。
何度、生まれ変わっても構わない。このような〈会堂〉が創れたら、どんなにいいだろう。と、夕陽が差し込み、人が動くたびに舞い散る埃がキラキラと輝くスカスマンの工房の片隅に座りながら、そう思った。