第一回 「“他国と向き合う”ということ。」

「とにかく、〈未来〉につながるプロジェクトにしたい。一過性のものではなく、日本と東南アジアを比較軸に調査や対話を重ねながら、〈現代における伝統の在り方〉を提案することを目的としたプロジェクトに。ひとまず二年。二年間付き合ってもらえないだろうか。プロジェクトである以上、なんらかの成果として最終的にまとめる必要があるが、それが結果的に公演なのかイベントなのか、書籍なのか、そこから一緒に考えてはもらえないだろうか。」
アジアセンターから、このような旨の打診をいただいたのは、2015年の師走も押し迫った頃、今にも雪がちらつきそうな夕暮れだった。前田、遠藤の両氏が京都までわざわざ出向いてくださり、熱っぽく語ってくださった。二つ返事でお引き受けした。ご両氏のお人柄、仕事にかける熱情にほだされたからだけではない。私としては、まさに“渡りに舟”、実にタイムリーな機会到来、であったからだ。
これまで、私の興味関心は、おもに“日本”のみに注がれてきた。子供の頃から日本の伝統芸能好きで、それが高じて、歌舞伎演目を現代演劇として仕立て直すことを生業にしているのだから、趣味も仕事も“日本の古典”一色に塗りたくられた生活には、“海外”の国々について考える余白もなく、またその必然性もさほど感じずに生きてきた。しかし、ここにきて、この態度をあらためないといけない局面に差し掛かってきたような気がしていたのだ。

アジアセンターのお二人にお会いするひと月ほど前、私は生まれてはじめて沖縄に足を踏み入れた。琉球舞踊のホープであり、国立劇場おきなわの芸術監督でもある嘉数道彦氏とのトークセッションに招かれたからで、「現代に活きる古典~伝統芸能と現代演劇について考える~」というテーマで二時間ほど語り合った。それだけでも有意義な時間であったが、主催者側のお心尽くしであろうか、二泊三日の余裕のあるスケジュールの中、沖縄本島の歴史的名所や伝統芸能を多く見せていただいたことが、ありきたりな云い方ではあるが、まさに私にとっては“カルチャー・ショック”であった。
沖縄の代表的な伝統芸能に「組踊」がある。琉球の古典音楽と伝統舞踊によって構成された歌舞劇であり、いうなれば、“沖縄版・能楽”である。と、それまでの自分なら、深い考えなく安易にこう説明していただろう。なんと愚かしいことであろうか。だいたい、他者の文化を説明する際に「○○版・○○」という身近なものを引き合いに出し、わかった気になる(または、させる)など、いささか乱暴が過ぎる。そこには多少の、見かけ倒しのPOPさがあるだけで、その実、なにほどの解説にもなっていないのだし、だいいち、フェアーじゃない。常に自分の立ち位置は動かさず、他者の文化を無理やり引き寄せて、「はいはい、私たちで云うところの○○みたいなものね」と済ませてしまうのだから、不精にもほどがあるし、安易なレッテルをいとも簡単に貼ってしまうことで理解したことにしてしまえるのだから、それは一種の暴力行為にも通ずる……と、まあ、そんなことを考えさせられるほど、現地・沖縄で目の当たりにした組踊は、衝撃的で、唯一無二の尊い輝きを放っていた。まず、一目見て、この琉球が有してきた古典歌舞劇の複雑さに心奪われた。演者の足の運びは摺足が基本で、舞台のスペーシング(居所)のロジックも、なるほど能に共通している。しかし、その演技態は、ところどころ狂言に似た軽みを帯び、扇を操る腕と手が描く曲線は歌舞伎舞踊のようである。首の動き、面(顔)のきり方はどことなく中国の京劇を思わせるし、そもそも、あの衣裳の原色を散りばめたような色づかいは、遥か大陸の文化を彷彿とさせる。信じられないくらい腰をグッと落として、足を外輪に開き、大股で歩く所作には、例えば、タイの伝統芸能・コーンなどに見られる東南アジア特有の身体性の匂いがする……。古くから、釜山、福州、安南、マラッカ、ジャワ、ルソン、薩摩、博多などと交易を結び、アジアの重要な貿易拠点として発展してきた〈島〉に相応しく、実に〈ハイブリットな歌舞劇〉なのだ。だからといって、オリジナリティーが無いということではなく(そもそも、これらの複数のエレメントを結晶化したこと自体にも充分な独創性が存在しているのではあるが)、他国からの芸術的影響を何もかも差っ引いたところに、なおも消え残る、独自性があった。それは、主に言葉と音楽が司る〈間(リズム)〉である。琉球の古語が持つ音の柔らかさと、うねるような抑揚―。琉球の古典楽器が奏でる、まるで時間を引き延ばしたような、たゆたうような旋律―。舞台全体に流れるこのリズムは、沖縄が有してきた悠久の時間を体現しているかのように、響く。おそらくそれは、唯一無二なもののはずだ。寄せては返す波の音、どこからともなく吹いてくる風の音、沖縄の自然を音声化したようなリズム。そして、この島の歴史。古琉球の時代から近現代にいたるまで、直面し続けてきた厄介な外交、政治的駆け引き、理不尽な搾取と暴力、そして支配。この島は、なんと多くの苦難を呑み込んできたことだろう。あの平穏な劇のリズムには、それら全てが内包されているように私には感じられた。どんな苦難も内包するやわらかさと芯の強さ。その果てに獲得した“自分たちのリズム(スタンス)”なのだ。正負両面から諸外国の影響と圧力をもろに受けながらも、かつ自立しようと努めてきたこの〈島の姿〉が、まるで縮図の如く、組踊という芸能には現れていた。かつて、私は、一度たりとも、このような視点で、日本の芸能を観ることができただろうか。能、狂言、文楽、歌舞伎……どれもそれなりの数は見てきたはずだが、あまりに身近すぎたせいか、舞台の一つひとつの良し悪しはとやかく言えたとしても、伝統芸能の奥にある〈国のカタチ〉にまで想いを馳せたりはしてこなかったように思う。それを観ようとせずして、何が“伝統”なのか、何が“古典”なのか―。
日本で出来ないことが、なぜか沖縄では出来た。それは、自分にとって沖縄が文化的に〈異国〉であったからに他ならない。異邦人が異文化を見つめるような新鮮さと(多少の自由さ)があればこそ、可能であったのだと今にして思う。つまり、「日本の中のみに居て、日本の伝統芸能について考える」ことの限界を思い知らされた瞬間であった。出来ることなら、いま一度、異邦人的立場で日本の芸能に触れ、この国のカタチを隈取ってみたい。そのためには、新たな眼を獲得しなければならない。とりわけ、日本の芸能に強い影響を与えたはずである中国や朝鮮、そして東南アジアの芸能を視野に入れながら見つめ直す必要がある。冒頭に記したアジアセンターからのお誘いは、このような欲求が沸き起こっている最中のことであった。

さて、簡単に、〈他国を観る〉といっても、これがなかなか難しいのではないか、と思う。先に〈異邦人的立場〉という言葉を使ったが、これと〈観光客的立場〉とは、似て非なるものであり、大きな開きがある。後者ならば、他国のポジティブな部分のみを切り取って褒めそやしたり、物珍しさに感心したりしていれば事足りるが、前者であろうとするならば、その国のネガティブな部分をも引き受ける覚悟が必要になってくる。それはけっして楽しいことばかりではないだろう。だからといって、他国に対して“同情的”になるのも、違う。同情は時として“優位意識”に転じ、知らず知らずのうちに、他国を弱者として扱ってしまうおそれがある。ましてや、自国と異文化を比較することで、「やはり日本文化は素晴らしい!」などといった安易なオリジナリティーを再認識するような姿勢はもってのほかであり、最も忌むべきことであろう(昨今、信じられないことに、日本においてこのような風潮が強まってきていると感じているのは私だけだろうか……)。
つまり、どこまでいっても、自己と他国は並列関係であり、互いに上下も貴賤もなく、寄り添いながら、見つめ合うような視点でなければ、意味がない。そして、その中で行われる対話は、両者にとって実りのあるものでなくてはならない。言うは容易いが、まことに実践するとなると、実に難しいことだ……。アジアセンターとのプロジェクトが始動しはじめても、なかなか心が定まらず、考えあぐねている時、偶然、立ち寄った古本屋で、一冊の本に出会った。正確にいうと再会したというべきかもしれない。それは、民藝運動の指導者であった柳宗悦の評論集『民藝四十年』(岩波文庫)であり、ずいぶん前に読んだことがあった。「たしかこの中に、他国に対して語りかけている文章があったはずだ……」と記憶を頼りに頁をめくってみる。「朝鮮の友に贈る書」と題されたその文章は、大正7年に記されたもので、当時の朝鮮の独立運動(三・一事件)を受けて書かれた、云わば柳の“隣国へ宛てた熱烈なラブレター”だ。同時に、優れた朝鮮文化論であり芸術鑑賞論でもある。柳は、日本と朝鮮が育んできた長き交流の歴史を紐解きつつ、両国が〈支配/被支配〉の関係に陥ってしまった現状を冷静に見据えつつ、朝鮮の陶磁器の造形をこのように“隈取る”。

「流れるように長く長く引くその曲線は、連々として無限に訴える心の象徴である。言い難いもろもろの怨みや悲しみや、憧れが、どれだけ密かにその線を伝って流れてくるであろう。その民族は応わしくも線の密意に心の表現を托したのである。形でもなく色でもなく、線こそはその情を訴えるに足りる最も適した道であった。人はこの線の秘事を説き得ない間、朝鮮の心を入る事は出来ぬ。線にはまざまざと人生に対する悲哀の想いや、苦悶の歴史が記されている。その静かな内に含む匿れた美には、朝鮮の心が今なお伝わっている。私は私の机の上に在る磁器を眺める毎に、寂しい涙がその静かな釉薬の中に漂っているように想う。」

いつまでも引用したくなる文章だからこのあたりでやめておくが、実はこのあと、磁器が語る声なき声を次々に柳が代弁していく。その件がなんとも素晴らしい。それは、磁器に託した陶工の願い声であり、虐げられる民衆の声であり、独立派の日本への抗議の声であり、朝鮮という国そのものが、兄弟国である日本に語りかけるやさしい声でもある。多種多様な声を、柳は磁器から次々に聴き取り、まるでイタコのように書き連ねていく。
柳はけっして、支配国側の立場に立って発言しない。また支配していることを引け目にへりくだったりもしない。日本政府を口汚く非難することもなければ、正義心を振りかざし独立運動に加担することもしない。自国と他国の〈尊厳〉を最大限に尊重しながら、なおも〈対等〉に接しようとする。他国の声を聴こうとする。

「藝術の美はいつも国境を越える。そこは常に心と心とが逢う場所である。そこには人間の幸福な交りがある。いつも心おきなく話し掛ける声が聞こえている。藝術は二つの心を結ぶのである。そこは愛の会堂である。」

分かり合うことすら困難である異文化同士の者は、芸術を介在させることで深く対等な対話が許される。柳はそれを「愛の会堂」と表現した。そして、他国の芸術から声なき声を聴き取ろうとすることは、例えるならば「黙禱するかのよう」な姿だと説明している。
それはまさに、他国と向き合うための“極意”だ。
本プロジェクトを通して、私は、常に黙禱するような心地でいたい。そして、どんなに小さくても、どんなに粗末なものでもいいから、会堂を見つけ、そこに入れることを切に願っている―。