【エッセイ】園田 喬し

園田 喬し

「伝統のチカラ、芸能のカタチ」というプロジェクト名が正式に決まったのは、2016年5月頃だったと思います。僕がキーワードとなり得る単語をズラリと用意して、それをこのプロジェクトのメンバーである、国際交流基金アジアセンターの前田さん、遠藤さんたちとひとつずつ検討していき、ああでもない、こうでもない、と熱く語りながら、最後はこの名前に着地しました。いま振り返ると、この命名以外あり得ないほど、座りの良い名前に落ち着いたと思います。名は体を表すといいます。プロジェクト名は極めて重要なものだと捉えていました。
このプロジェクトは、文字通り「伝統のチカラを再発見し、芸能のカタチを考えるプロジェクト」として構想され、東南アジアと日本を最初のターゲットに絞り、“現代”にこだわって私たちなりのフィールドワークを続けてきました。プロジェクトメンバーは6人。年齢も職業も異なる6人なので、それぞれのやり方で、それぞれの感性で、この命題と接してきました。当然ながら、そこにはそれぞれの発見・再発見と、それぞれの考察があると思います。僕の個人的な感想を記すことが目的であるこの文章は、プロジェクト全体をまとめる意味も、少しあるかもしれません。ですが、ここではあくまで「園田喬しの感想」を綴らせてもらおうと思います。

現代演劇、とりわけ「小劇場(系)」と呼ばれる演劇シーンを主な取材対象としている僕は、海外交流も、伝統芸能も、特別に詳しいということはありませんでした。その自分に国際交流基金アジアセンターから声がかかったのは、僕が編集・発行する『BITE(ばいと)』という演劇同人誌が関係していると推測します。この雑誌は、自分なりに「小劇場シーンを咀嚼する」ことがテーマのひとつとなっており、その趣旨に賛同してもらえた、ということなのだと。つまり僕は、我流の咀嚼力を発揮しながら、このプロジェクトにかぶりつき、ともすると専門性が高くなりがちな伝統芸能を、いかに平素な言葉で分かり易く伝えるか、そういうことを考えるポジションとして期待されていたのだと思います。
その立場でこの活動期間を振り返ってみると、メンバー全員が、ある意味柔軟、ある意味頑固な面を併せ持っており、全員でウンウン悩みながら、いかに咀嚼するか? に挑み続けた数年間だったと思います。咀嚼するという行為は、ある意味で本質を掴むことと同義なので、とても細やかな思考が問われます。目の前の事象に対して、私たちは一見して結論づけることを避け、粘り強く、丁寧に、対象を見つめてきました。その上で、どう咀嚼するか? ということに挑み続けました。

インドネシアへ調査渡航に出たのは2016年9月。「伝統のチカラ、芸能のカタチ」にとって、最初の大きなアクションでした。思い返してみると、とても濃い、本っ当に濃い、2週間だったと思います。インドネシア伝統芸能を現地で長年研究していた経歴を持つ遠藤さんが、自身の知識と経験と情熱を全て注ぎ込み組んでくれた、極めて濃密な旅程。印象的だったのは、東京からインドネシアのジョグジャカルタまで移動した翌日、つまり本格的な調査1日目のこと。早朝にホテルのロビーに集合。朝食にソトアヤムという鶏スープ(絶品!)を食べるため、ローカルな食堂に入る。そのまま芸術大学へ移動し、講義などを見学。昼食をとり、移動してヒンドゥー遺跡を視察。夕食は屋台で買ったインドネシア料理を路上で食べ、一度大学へ戻り、更に移動して、21時頃から上演されるワヤン・クリッを視察。ワヤン・クリッは徹夜上演のため、ホテルへ戻ったのは早朝に近い深夜。この日、移動の車中で「1日が長い!」「まだ初日だよ!」という言葉が何度も飛び交いました。しかし、私たちは全員笑顔。初日から嬉しい悲鳴でした。異国の地で浴びる圧倒的な情報量。ひとつひとつが貴重な経験で、自分が生涯をかけて少しずつ血肉に変えていくような、壮大なお土産を手に入れた気分でした。このプロジェクトは、目に見える成果よりも、目に見えない成果、知識、経験を、より優先的に取り扱ってくれた節があります。この調査渡航の報告や、インドネシアから帰国した後に開催した、作家・詩人の池澤夏樹さんとプロジェクトメンバー・木ノ下裕一の対談などは、私たちなりの咀嚼として冊子にまとめました。しかし、私たちの中に蓄積された“目に見えぬ成果”こそが、この渡航の肝ではないかと考えています。

上記の冊子編集・制作にも多大な情熱を注ぎましたが、もうひとつ、僕の心に深く刻まれたのは2018年1月のこと。私たちがインドネシアの現地でお世話になった「友人」も含め、インドネシア伝統芸能の気鋭の担い手たちを日本へ招へいし、日本の伝統芸能について、共にフィールドワークを行いました。これもプロジェクトメンバーの前田さん、遠藤さんを中心に、大変濃い旅程が組めたと自負しています。その当時、僕の率直な気持ちとして、インドネシア伝統芸能と比べたら日本の伝統芸能には多少の知識があるし、2016年渡航の際にお世話になったインドネシアへ恩返しをしたい! という意識がありました。しかし、僕にとって自国芸能を巡る旅は、案内をする立場にあるにも関わらず、新鮮な発見の連続で、ここでも多くの刺激を経験することができました。この招へい期間で、僕個人が最も計算違いだったことは、インドネシアアーティストたちの自国文化への慈愛と、伝統芸能への飽くなき探求心でした。当時の僕は「せっかく日本に来てくれたのだから、この国の日常、現在を見てもらいたい」と考えていました。それが彼らに喜ばれると信じて。ですが、インドネシアアーティストたちは、日本の現在をごく自然に吸収しつつ、その上で伝統芸能に非情に強い関心を示しました。「伝統のチカラを再発見し、現代の芸能のカタチを考える」という命題に対して、僕よりはるかに貪欲な彼らと行動を共にした2週間は、本当に学ぶことが多く、実りのある時間でした。

2018年晩秋、僕は東京でワヤン・クリッを観劇しました。これは「伝統のチカラ、芸能のカタチ」プロジェクトとは無関係の機会で、ワヤン・クリッに興味を持つ一個人として足を運びました。そして、この時僕は、ワヤン・クリッ上演に関する比較対象を初めて得たことを痛感しました。ワヤン・クリッは、遠藤さんによる勉強会、本場インドネシアの上演、2018年1月のインドネシアアーティストたちによる各種デモンストレーション、等々、このプロジェクトの機会でしか触れてこなかったのです。僕は、自分がこれまでいかに受け身だったかに初めて気が付きました。これまでは、ワヤンについてほとんど知識のない状態で、「ワヤン・クリッの現在」を最上の解説付きで体験させてもらっていた。例えるなら、本場の極上料理を口元に運ばれるまま食べていた状態といえるかもしれません。それがどういう料理で、どう美味しいか、その時点で自分が持っているモノサシで捉えようとした。そのことが大きく間違っているとまでは思いませんが、やはり受け身的だったのでは……? と気付いたのです。これは、僕がこのプロジェクトで有意義な経験を得てきたことの証明であると同時に、今度は自ら能動的に学び続けなければならないことを意味しています。

このプロジェクトに参加する以前の自分は、現代・現在に強い関心があり、意識的に追いかけていたのは「その対象が現代社会においてどのような意味を持つか?」という問いでした。伝統芸能についても、それが現在とどう結びつき、どう機能するか? に関心がありました。しかし、この数年間で経験したことは、自分たちのルーツを辿り、その深淵に魅了され、それを未来へ繋ぐことの面白さ。大切なことは、伝統(芸能)が短期間で現在の姿に変容した訳ではなく、沢山の先人による努力と工夫が、紡がれ、紡がれて、今日に至るということ。時代毎の環境変化や社会状況に適合しつつ、じっくり、何度も、改良され続けてきたのです。とはいえ、先人たちの業績について、過剰に上げ下げをする必要もありません。「素晴らしい文化をどうもありがとう。今度は私たちの番だし、数十年後は未来の人たちの番です。そのために、私たちも必死に今を繋ぎます」という意識が、今の僕にはしっくりきます。この世に生まれた全ての人々が伝統の継承者であり、当事者であるという考え方は、このプロジェクトを通して学んだことです。
だから、僕はそれを「やめる」という発想がありません。誰かにやめろと言われても、やめるつもりもありません。学び、継承し、託す。そのチカラが、未来をカタチ作るのだと、僕は思います。何より面白いですもん、伝統芸能って。