
カデッ・デウィ・アリアニ(Kadek Dewi Aryani)舞踊家、サンガール・リッタ・デウィ主宰
東京に到着
バリから日本への旅はとても楽しかった。今回の旅はとても特別で、「伝統のチカラ、芸能のカタチ」という国際交流基金アジアセンターが掲げたテーマで、インドネシアの芸術家が日本に招聘されたのだ。豪華な衣装を着けた舞踊や演劇、とても高度なテクニックで操られる人形劇、東洋の調べを感じる古典音楽、独特な発声と特徴的な語り口など、日本の伝統芸能を学ぶ旅によって、私は古代日本の伝統芸能の世界に導かれたようだった。日本の伝統芸能を見るために、都市から都市へ移動しながら多くの場所を探訪する経験は、私にとって本当に特別な経験だった。32キロのスーツケースを運びながら、東京、横浜、広島、京都、そして大阪へと旅したことを想像してみてほしい。スーツケースの重さと時々0度以下になる冬の寒気さえも、日本の伝統芸能を巡る私の熱意をそぐことは決してなかった。インドネシアの他の芸術家たちと冗談を交わしながら旅するごとに親交が深まっていった。私はバリ舞踊の代表として、アノンはジョグジャカルタの伝統音楽を、チャトゥールはジョグジャカルタのワヤン・クリッ(影絵芝居)を、ナナンはワヤン・カンチル(小鹿のカンチルが出てくるワヤン)やワヤン・プルワ(原初のワヤン)を代表する芸術家として参加していたのだ。この親愛の感情はインドネシアの芸術家たちだけでなく、日本の芸術家たちや、疲れを知らない国際交流基金チームとの間にも育まれていった。彼らは、ヒーターをどうつけるか、洗濯機をどう使うかといった小さな事柄から、著名な日本の芸術家とどう接すればいいのかといったよりシリアスな事柄においてまで、とても熱心に対応してくれた。彼らは旅行を企画するだけでなく、実際に私たちを能、歌舞伎、文楽、神楽、日本舞踊の公演へ案内してくれた。現代的な様式の歌舞伎を紹介してくれたり、また日本の有名な劇団の現代演劇にも連れて行ってくれたのだ。それにとどまらず、インドネシアと日本の文化交流の機会も与えてくれた。私たちが彼らの芸能を知り、逆に私たちの芸能を紹介するワークショップのスケジュールも用意してくれた。日本語で日本の芸能を鑑賞する際、話の筋を理解するのが難しいが、国際交流基金は観賞前にその分野の専門家による講義を行ってくれた。また、理解を助けるため通訳も用意してくれた。お茶やコーヒーを飲みながら行う「伝統のチカラ」のディスカッションでは、様々な経験がホットトピックとなるのだった。私たちは伝統芸能を脇へ追いやるのではなく、伝統芸能に基づいた新しい芸能を生み出したいのである。つまり私たちにとって、伝統は古臭いものではなく、むしろ逆で、伝統芸能の力を基礎にして創作し、新たな芸能が生まれるのだ。できるだけたくさんの経験をし、より高い技術を求めなさい。しかし、あなたの根源がどこにあるのか忘れてはいけない。根がしっかり強く根付いていれば、木は強い風を受けても倒れない。そのように芸術作品を作るのである。「私の根源は伝統である。」芸能の創作において自分の根源を知ることはとても重要で、今回の旅の記述では、あなたがいかに私の作品の中に私の根源を見るか、そして私がいかにあなたの根源を、新しいあなたの木を見るか、ということを共有したいのだ。
能を楽しむ
成田に着くとすぐに慌てて横浜へ向かった。能楽堂がある場所だ。今回の公演はとても特別で、能と華道家との共演だった。このコラボレーションは、春の季節の中で能舞台を見ているかのような美しい雰囲気を醸し出していた。華道家はまるで儀式のように、一本一本の花卉に意味があるかのように、精魂を込めて花を生けていた。この桜の国では、花を生ける熟練の技術が、日本人の類まれな才能だと認められている。華道家が花を生け終えてから、能の舞台が始まった。能の動きはゆっくりで重く力がこもっており、1時間以上の間、静寂の中で流れていった。観客はこの芸術から生まれた風情をとても堪能しているようだった。私たちは、まるで人間がまだ不思議な力を持つ自然を信じていた数百年前の古い時代へと遡ったかのようだった。能楽師の心の奥底から生まれる超自然的なパワーは洗練されて表面に現れ、舞台上の全ての空間に触れていった。ゆったりとした、時に早くなる音楽により、自然が全ての人々に開かれていて、まだとても純粋だった人間の文明の時代へと想像が広がっていった。私はそよ風や、鳥の鳴き声、深い谷を感じ、まるで竹林の中にいるかのように感じた。宗教的な音楽は私の心を震わせ、この音楽は他の創造物、もしくは世界を活かすものへの奉納の音楽なのだと感じた。多くの観客がこの静かで平和な雰囲気の中で漂っているのを感じた。東京は賑やかですべてがスピーディな大都市だが、能舞台を鑑賞すると、東京はスピードを落としゼロ地点へと回帰するのだ。能の衣装はとても豪華で、何世紀も前の様々な国や王朝との長い文化の交流を物語っている。その他に、多くの国々や王朝との政治的な状況や関係を見ることができる。かつては、有名な能役者は武家の舞踊家として重用され、江戸時代に急速に発展し、集団毎に独自の様式を持っていたため、能には多くの流派が生まれた。
能にはたくさんの謡曲があり、能楽師は数百の謡曲を修得しなければならず、その演目から多様な特徴のある豪華な衣装が生まれた。能は奉納舞踊から始まり、ヒノキの下で上演された。話の筋はとてもシンプルで、私もその流れに乗れた。僧侶が仏に会おうと長い橋を渡る時に、人に道をふさがれる場面がとても印象深かった。話の流れはとても緩やかで、音楽もゆったりとしており、建物の中が、まるで平和な魂に溢れ、開かれた自然の中にいるかのような雰囲気に変わった。チケット代は高額な部類ではあるが、この公演を楽しむために来る日本の観客にとっては妨げになるものではない。約5千円のチケット代に驚いたが、日本人の伝統芸能に対する敬意が示されている。インドネシアの伝統芸能のチケット代をこれだけ高くして、果たしてインドネシアの芸能が良い方向へ向かうのだろうか。もちろんこの答えは難しい。しかし私にとって重要なのは、現代においてどうすれば伝統芸能が生き残るのか、社会といかに融合するのかということなのである。
歌舞伎の舞踊と劇を見る
伝統芸能のチケット代について話すと、日本の歌舞伎のチケット代は更に跳ね上がる。私にとって歌舞伎を見たのは二度目の経験だった。銀座は日本で最も地価が高く、歌舞伎座がある場所だ。あなたは銀座にある歌舞伎座は、一企業が所有していると知っているだろうか?この企業は大金持ちで、歌舞伎俳優にそれなりの報酬を払っていることを想像してほしい。歌舞伎公演の経営は非常に安定して自立している。歌舞伎の歴史を見ると、歌舞伎は阿国という女性によって川のほとりで生まれた。この芸能はシンプルであったが衣装や表現がとても奇妙であった。その誕生の頃から騒動となり、女性は歌舞伎を舞うことができなくなってしまった。しかし、現代は全く違う。あなたは女性や男性が演ずる歌舞伎に出会うだろう。しかし銀座の歌舞伎座では、歌舞伎の役は全て男性で、豪華な舞台の上で演じられる。劇場では、歌舞伎の有名な物語にちなんだ土産物が販売されている。間違っても、これらの物を複製しない方が良い。歌舞伎に関わるデザインは全て商標権に登録されているからだ。スーパースターの歌舞伎俳優の屋号や名跡も登録されている。この事実はバリやインドネシアの他の伝統芸能家の状況と180度違う。伝統舞踊家は私利のためでなく、奉仕として芸術活動を捧げているのだから。このため、彼らはいくら素晴らしい舞踊家であろうと名前を目立たせることを嫌う人が多いのだ。
歌舞伎を鑑賞する伝統
着物を着た観客を多く見たら、それは歌舞伎の熱心なファンである。彼らはとても優雅に、日本の高価な伝統衣装である着物を身につけることを誇りにしている。また、多種多様なお菓子やすし弁当などの食べ物も出てくる。私たちは、休憩時間にその食べ物を楽しむことができる。歌舞伎の演目はたくさんあり、一部は日本の伝統人形劇である文楽から取っている。とても印象的だったのは、舞台上の場面転換と季節の表現が、とても素早く整然と変わり、音楽、動き、声、衣装、化粧まで、演目の中の役それぞれに決まりがあることだった。歌舞伎俳優になるのは簡単なことではない。多くのことを修得しなければならない。全く違う二つの役を演じることもある。美しい姫になったり、勇ましい殿様を演じたり。こういった役を一人の俳優が演じることが稀ではないのだ。