
チャトゥール・クンチョロ(Catur Kuncoro)ダラン(人形遣い)
インドネシアについて語る時、文化の多様性を抜きに語ることはできない。多種多様な伝統と文化を持つ民族がおり、大衆文化から宮廷文化まで、語り始めたら尽きることがないほどだ。国際交流基金の招きでワヤン・クリッのダラン(人形遣い)として日本を訪問したが、ここでジャワのワヤン・クリッの発展について少し説明したい。ワヤン・クリッとは、水牛の革で作られた影絵人形を使い、スレンドロやペログという音階のガムランを伴奏に、通常、夜8時間ほどにわたり上演される伝統芸能公演である。
ジャワのワヤン・クリッについて詳しく語る前に、古典派と創作派という2つの流れに分かれることを説明しよう。この2つの流派は、芸術的にも上演様式も違い、わかりやすい例としてクラトン(王宮)の内で上演されるか、外で上演されるか、という違いがある。古典派とは、「パクム(上演のあらすじ)」という祖先の芸能家により書物や口頭で継承されてきた古典的な様式で上演する流派である。一方、創作/現代派は古い様式もしくは新しい様式を使うが、その時代の社会の求めに伴い変容させた様式で上演する。従って、それぞれが違う「到達点」を目指すため、より問題が複雑になるのである。しかし、興味深いのは、一部の伝統芸能と創作芸能は、演ずるダランが同じである。彼は伝統芸能の世界では、祖先の文化を守り維持する役割を演じながら、王宮の外では、時代の変化に即した芸術家として仕事をしているのだ。その良い面として、彼は古典から外れても、伝統様式を手本とし、社会の変化に応じて、作品がより魅力的になるよう発展させているのだ。
親しみを込めてベニュックと呼ばれる私ことチャトゥール・クンチョロは、キ・スパルディというダランと スリという歌手の間に7人兄弟の4番目の子供として生まれた。この家族は舞台から舞台へと演じる芸能を生業にしていた。キ・チュルモ・バンチャックというキ・スパルディの父が残したガムランとワヤン・クリッ一式が、家族の生活手段であった。ワヤン・クリッを上演しない時は、この一式を他のダランや、ガムラン演奏会、伝統音楽の録音などに貸し出していた。キ・スパルディが子供たちに強調して伝えたメッセージは、物体であろうとも、彼らの生活を支えるガムランやワヤン・クリッに敬意を示しなさいということだった。7人兄弟のうち、チャトゥール・クンチョロだけが、親の影絵の技術を受け継ぎ、他の兄弟は伝統音楽の道を選んだ。幼いころからその世界に慣れ親しんでいたチャトゥールにとって伝統的なダランになることは、難しいことではなかった。両親、伯父や従兄の公演に同行しながら、ジョグジャカルタ国立芸能高校でワヤン・クリッを専攻した。高校で2年学んだ頃に、父親が亡くなった。そして高校を卒業して、父親に代わるべくプロのダランになると決意した。しかし、世の中で売れるダランになることは容易ではなく、社会に認められるまでは、ゼロからキャリアをスタートしなければならなかった。彼が修得した基礎的な伝統技術だけでは、彼の名を知らしめるには十分ではなかったのである。有名な芸能家になるためには、「作品」が必要であった。そこから、彼はワヤン公演の探求を始めることとなる。コラボレーション作品から独自のアイデアによって生まれた作品までワヤン・リンケス、ワヤン・ピクセル、ワヤン・デュアルコア、ワヤンム・ワヤンク、ワヤン・リパブリックなどを制作していった。そして、その熱意の果てに、若い観客層を引き付けるワヤン・ヒップホップが生み出されたのだ。
なぜ若者でなければいけないのか?
まず、若者は次世代の後継者であること、そして、「伝統芸能を知らない」と常にやり玉に挙げられるのが若者であるからだ。伝統を語るには過去に関わらなければいけないが、若者の発想の次元はより革新的で現代的なのである。従って、伝統芸能をより現代的で魅力的な方法・メディアで若者に伝えなければならない。技術的には若者にとって「古い」物を伝え、彼らの興味を引くことは難しいことではない。料理を例にとると、伝統芸能は主食に例えられ、より最新の飾りをつけて通常の調理か、現代風に調理するということだ。そして、若者に伝統を紹介する上で重要なことは、彼らをプロセスに巻き込むことだ。その上で、私は伝統芸能を革新するのである。
先日の日本訪問は、今まで芸術家として海外(タイ、韓国、シンガポール、オーストラリア、ベルギー、ペルーのリマやアメリカのいくつかの都市)を訪問した中で、最も興味深く印象に残った。なぜなら、日本では伝統芸能と実演家により身近に接し、現代の伝統芸能が直面する問題について、お互いに意見交換をできたからである。伝統芸能家と現代芸術家との間に摩擦が起きているという同じ課題を抱えていた。伝統芸能の先達たちは様式を変えたくないと望む一方で、現代の芸術家たちは伝統芸能も時代の変化に順応して欲しいと望んでいる。 実はどちらも間違っていないと思う。いずれも伝統芸能を保存するという目的があり、ただ方法が別々なだけである。本来ならば、ここで政府が、それぞれの流派が一緒になって芸能を保存し活性化する場を提供すべきなのである。 残念ながら、17日間の日本滞在で、伝統芸能を知らないと言われる日本の若者に会うことができなかった。しかし会ったところで、日本語を話せないため、その原因を知りうることはなかったと思う。しかし私が思うには、若者が伝統芸能を好まない原因には、多くの共通点があるのではないかと思う。インドネシアにおけるジャワのワヤン・クリッの課題としては、物語が理解できず、登場人物や言語も理解しづらい、上演時間が長すぎる、などだろう。このような場合、問題はとても単純だ。ことわざにもあるように、「知らなければ、好きになれない」である。誰が悪いのか?知ろうとしない側か、知らせない側か?(笑)。実際のところ、「年配者」が伝統芸能をとても難しく上演するため、「若者」は近づきがたく、学びたくもなくなり、そして、彼らはより容易で楽しい現代芸術に近づき、伝統の根本について知ることがないのである。
日本訪問の後に、私は自国で何をするべきなのだろうか?
伝統と現代性を語る時、私が強調したいのは、既存のものが後続するものへ影響を与え、かつ原型となることである、表現方法と様式が違うだけである。要するに、古いものが新しいものより成熟しているということだ。
多くの共通点があるが、基本的な違いは、日本の伝統芸能は現代芸術に比べ、より強固なイメージがあるということである。芸術文化は「観賞するものではなく、教え」であるという信条に基づいているからではないか。インドネシアにも精神性を媒介する芸術文化の流れはあるものの、多くのダランは「舞台芸術」とは、常に「人を楽しませる」という舞台のルールからかけ離れてはいけないと考えている。
日本訪問を終え、ジャワのことわざ“empan nggo papan”の意味を実感している。自分の置かれた場所に自分を合わせる、どこにいようと芸術文化を保存し、活用していくということだ。 祖先が残した芸術文化を愛する芸能の実演家として、芸術文化を維持し、活性化することを忘れてはいけない。この状況の中で、私は“Manjing Ajur-Ajer”どんな状況にも冷静に順応し、意見の衝突を避け、「伝統のチカラ」というメッセージを伝えていきたい。