【対談】古典と向き合う―文学と演劇―

【第四幕】木ノ下『古典に触れる機会がアーティストへ与える影響は非常に大きい』

池澤 木ノ下歌舞伎の話に戻すけれど、『勧進帳』を現代化することも、それをどう読み込んでいくかでしょ? 読み込んだ上で、それを舞台に変換させる。ちょっとだけばらしちゃうと、今回の舞台は真っ白いステージで横に長く、背景も客席なんです。
木ノ下 客席が舞台を挟んで対面型になっています。
池澤 そうすると、ステージの奥に向こう側で観ている人の顔が見える。家へ帰った後で気付いたんだけど、『勧進帳』というのはAグループとBグループの対決の話なんです。安宅の関の富樫と、義経一行の対決。その対決がチャンバラになりそうな直前で言葉の戦いにすり替わるところが面白いのだけれども……、これ、ばらし過ぎかな?
木ノ下 いえいえ、大丈夫です。
池澤 これってラグビーなんですよ。アイスホッケーでも同じ。そういう形に変換することで一旦は伝統から切り離され、そこから更に伝統的な部分をもう一度拾い上げていく。この過程で現代化が行われているわけで、ぼくが翻訳を頼んだ作家達も、それぞれにそういうことをやった。
木ノ下 どの古典をどのアーティストに訳してもらうか? ということが鍵になってくると思うんです。まるで接点のない、作風も思考も合わないアーティストとのマッチングは面白くないでしょうし、かと言って合い過ぎちゃうのも想像の範囲内に収まってしまう。あれはどのように選ばれたのですか?
池澤 作品と作家のマッチングは確かに難しい作業だけれども、あれはぼくひとりでは出来なかった。編集部の力が大きいです。というのも、ぼくは付き合いの悪い人間で、これまで作家達と直に会うことは少なかった。この全集を始めてから会うようになったけれども、かといって彼らの近作もあまり読んでいない。だから逐一編集部と相談して、リストを作って、依頼も編集部経由でお願いしました。ぼくが連絡すると「お前がやれ」と脅すようなことになりかねないから。
木ノ下 池澤さんから直に電話がかかってきたら「はい」と言うしかないですもんね。
池澤 マッチングで言うと、島田雅彦さんは昔から井原西鶴が好きだと公言していた。だから『好色一代男』は彼に頼もうと。これは「好色」という言葉があるから島田さんに頼んだわけじゃなくて、彼が西鶴好きだと元々知っていたから。
木ノ下 はい(笑)。
池澤 『枕草子』はエッセイストの酒井順子さんにお願いした。彼女も『枕草子』ファンで、『枕草子REMIX』というエッセイ集を出している。一事が万事こういうことで、いやいや引き受けたのは『古事記』をやったぼくだけじゃなかったかな。
木ノ下 僕は現代のアーティストが古典を訳した時にこそ、古典の命が取り戻されると考えています。それと同時に、古典に触れる機会がアーティストへ与える影響も非常に大きいと思っています。現代演劇の場合、僕ら世代の演出家には「歌舞伎を観たことがありません」という人もたくさんいる。だったら観に行けばいいという話かもしれませんが、歌舞伎を観るのと、実際やってみるのとでは全然違いますから。やってみるとよく分かります。必死になって作品作りをしていると、自分が普段やっていることと古典の共通項に気が付いたり、自分の武器や魅力を再発見したり、一度古典を通過することでアーティストの引き出しが増えることがある。この全集も色々な作家さんが訳されていますが、そのようなケースはありますか?
池澤 ぼくが最初に考えたことは、とにかく古典と今の読者を繋げたい。その手伝いを作家に頼もうということだけでした。ところが、その話を大江健三郎さんにしたら、大江さんは「それは作家にも影響を与えますよね。作家自身を変えますよね」と言った。それは気が付かなかった。さすがノーベル賞作家だなと思いました。確かに作家も変えていっていると思う。芝居の場合は身体性が強いでしょう? だから観ることとやることの違いが歴然と現れる。小説は身体的な面が少ないですけど、『古事記』を訳しながら感じたのは、声が非常によく聞こえるということ。文章というのは書いているとある程度の声が聞こえます。声が聞こえていないとロクな文章にならなくて、一旦声にして自分の耳へ戻していく。言い回しがおかしいところは後で変える。ところが、『古事記』を訳しているとはっきり声が聞こえるわけ。これはおそらく、最初から読み上げられたものなのだろうと。普段の我々というのは、暗い部屋にひとり籠もって書き、本を出す。読者の方は暗い自室でそれを読む。だから、どこか暗いんですよ。芝居で何が羨ましいかって、楽しんでいる人の姿が目の前に並んでいること。その妬みがあるから、こうしてトークショーにも出てくるのですが。だけど『古事記』の場合、これは朗読されている。明らかに声があった文学だということが、訳していて分かる。今回の現代語訳は、その身体性を取り戻したのだと思います。本来文学は声が大事だと『古事記』を訳して改めて考えました。

【第五幕】木ノ下『鶴屋南北も近松門左衛門も、はっきり声が聞こえました』

木ノ下 日本の古典芸能の非常に大きなポイントとして、歌舞伎、能、文楽など、様々な上演形態や演技様式が現代まで続いてきたという点が挙げられます。変化は色々ありますが、誕生当初から現代まで、身体や声が途絶えずに残っている。『古事記』の声が聞こえてくるというお話ですけど、伝統芸能も同じで、やはりそういったものは無視出来ない。例えば『勧進帳』を上演しようという時に、台本だけ持ってきても全然意味がないんです。これがどういう身体で、どういう声で、どういう抑揚で、どういう演出で上演されてきたかということまで含めて、初めて「テキスト」になり得る。この抑揚にはこういう意味があるとか、この動きはこうだとか、それらを全部訳さないと意味がない。と同時に、上演され続けるうちに俳優が台詞を足したとか、新たな幕が付け加えられたとか、そういうものもたくさん存在します。それらを全部訳していく作業を、最初に僕がするわけです。補綴作業と呼んでいるんですけど、演目の上演史や受容史を調べたり、異本を照合した上で、演出家に一番合った台本を編集するんです。それを演出家に渡して「これを元に創作していきましょう」という土台、下訳みたいなものですね。その作業をしていると、作者の声が聞こえてくるんですよ。『東海道四谷怪談』なら鶴屋南北の声が聞こえる。「最近の上演ではこうなっているけれど、実は俺、元々こうしたかったんだ」みたいな。鶴屋南北も近松門左衛門も、はっきり声が聞こえました。僕は、それも何とか訳せないものか? と思うんです。それから、先ほど「演劇は観客の反応がダイレクトに見られて、それが羨ましい」というお話がありましたが、上演は残らないけれど、本は残るじゃないですか。100年後、200年後に、池澤夏樹という人がこういう仕事をした、21世紀前半にはこういう作家達がいた、なんて面白い全集なんだ! と、そういうことが残るでしょ。一方で今日千秋楽を迎える『勧進帳』は、次いつ上演できるかわからない。演劇には演劇の良さがあるけれど、でも、残るということは僕にとって羨ましい。
池澤 芝居でも作者の声が聞こえるという良い例があって、これは翻訳者の松岡和子さんに聞いた話ですが、『ハムレット』の中のハムレットとオフィーリアの会話に不自然な箇所があり、それがずっと引っかかっていた。ある時、『ハムレット』の稽古場で、その時のオフィーリア役は松たか子さんなんだけれども、松岡さんが「ここ、何か変よね?」と言ったら、松さんが「これは父親に言わされているのだと思います」と言った。それで松岡さんの長年の疑問が一気に氷解するわけです。松岡和子は非常に優れたシェイクスピアの翻訳者で、上演に関わる際は必ず稽古場へ行き、演出家や俳優と一緒に議論をする。そういう現場的なやり方をしている人です。その松岡和子の疑問点を松さんはぴしゃりと言い当てた。それを聞いた松岡さんは「役者はすごい」とゾッとしたそうです。演劇の場合、そういうことが起こりうる。上演の度に改められていく。小説は一旦出してしまえばそれっきりですから、その点は寂しいものです。
木ノ下 芝居の世界には「原作主義・原典主義」という言葉があります。作者が書いたテキストは一言一句尊重すべきで、それをそのまま上演することが最も正当な上演だという考え方。僕はそれが大嫌いなんです。歌舞伎なら歌舞伎で、出てくる言葉は当時の人が使っていた言葉じゃないですか。現代人は言葉も習慣も信仰の感覚も、何もかも違っているのに、それで原作主義を貫くとか、そもそもおかしいと思う。僕は、その古典演目を観た当時の人が、何を聞こうとして、何を思ったのか、そこまで再現したい。僕が芝居を作る時に意識しているのは、「この演目を観ている江戸時代の人の感覚って、こんな感じかな?」ということ。きっとこの全集にも「原文のまま収録しないのは何故だ?」という批判があると思います。でもこれは、敢えて訳す。しかも現代のアーティストが訳すことで、原文を読むより更に「原文に込められたナマの感覚」が味わえるかもしれない。僕が追求したいのはそういうこと。
池澤 全くその通りです。それ以上もう付け加えることがないくらい、そうなんですよ。しかも本の場合は有り難いことに、その気になったら原文はいくらでも手に入る。注釈書もあれば辞書もある。お勉強をしたいのであればいくらでもそちらへ行ってもらえればいいわけで、とりあえずこの全集を入口にして下さい、と言いたい。「世界文学全集」の時は、なかなかこういかなかった。これは面白いけれど原文はどうなんだろうと思っても、セルビア語やベトナム語ではちょっと勉強が間に合わない。その点、日本語の古典は周到な準備が出来ますから。そっちの用意はしてある、とりあえずここから入りましょうというのが、この全集の意味です。

【第六幕】池澤『編集という活動は、文学にとって基本的な営み』

木ノ下 入口とか、とりあえずここから入りましょうとか、そういうお話を聞くと、皆さんすごく甘い言葉に聞こえるでしょ? 「古典は苦手だけれども、ここから入れるのかしら」と。あの、もうねー、これ入口に立ってみて下さい。入った瞬間地獄へ堕ちますから(笑)。そうなんですこれ。町田康さん訳の『宇治拾遺物語』なんて、読んでみたらむちゃくちゃ面白いんですよ。町田康の文体で『宇治拾遺物語』。腹を抱えて笑うほど面白い。そうなると次は原作がどうなっているのか気になるから、原作を買いに書店へ行くわけなんですが、これがまた、新潮版があったり岩波版があったり小学館版があったり……、それらを全部揃えてねぇ。だって注釈の内容が違いますから。一通り並べて照合してみると、意外な箇所が原作にもあったり、逆にあると思っていた箇所が創作で、新しく付け加えられたものだったり、これがものすごく楽しいんです。池澤さん、僕はこの全集が出てから読書が全然間に合わないんですよ。だって一ヶ月に一冊新刊が出ますから。これ早いですよスパンが。間に合わないですよ。せめて三ヶ月に一冊にしてもらえません!?
会場 (爆笑)。
池澤 作る方だって大変なんですよ。
木ノ下 そうですよね、作る方も読む方もお互い大変。新訳されたものを読むと原作が読みたくなる。これは素晴らしいこと。広げると同時に奥へ入れるんです。僕も同じことを考えています。木ノ下歌舞伎の『勧進帳』を観て下さい。きっと面白いと思うんです。自信を持ってお送りします。でも、木ノ下歌舞伎を観た後に、これは歌舞伎ではどうなっているのか、文楽ならどうか、能・狂言ならどうか、そういうことを気にして欲しい。だから、我々は蟻地獄を作っているんです。蟻地獄を大きくしてどんどん中へ引きずり込んでいく。普及と同時に、奥へ奥へと。
池澤 全集を作っている側が地獄だと思っているのだから、読者の皆さんにも共有して頂きたい。
木ノ下 はははは。作る側も覚悟しているのだから、読む側も覚悟して読んで下さい。
池澤 これも木ノ下歌舞伎と共通すると思うのだけれど、「日本文学全集」は最初にラインナップを作ったわけですが、ここでは「編集」という言い方にしましょうか。色々と違うものを持ってきて、そこへ並べて、ワンセットの全集にする。これは文学にとって非常に基本的な振る舞いであり、例えば『古事記』。太安万侶は当時色んな家々に残っていた有力な言い伝え、系図、物語、民謡、そういったものをかき集めて、それら全部を積み上げた上で、この中の何を選んでどういう順番でどんな物語に仕立て直すかを考えた。更に、日本語の発音に沿った表記法を作るという、もうひとつの大仕事もやり遂げた。色々な素材を集めてきて、ひとつの方針を基に性格のはっきりした書物に仕立てる、これが編集ですね。ある意味では美術のキュレーターの仕事に似ていると思う。そして、この編集という活動は、創作や翻訳と同じように、文学にとって基本的な営みです。『古事記』に始まり、『万葉集』にしても『宇治拾遺物語』も『今昔物語』も、すべて編集ものですよ。素材は他にあったんだから、誰かがまとめた。『平家物語』だって、様々な伝説を辣腕な編集者がまとめたのだと思う。明らかに一人の頭から出てきて完成に至ったのは『源氏物語』くらいで、古典の文学作品というのはみんな編集ものです。その原理に気が付いて、いま自分は同じことをやっているんだと思い、それは嬉しかったね。